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INTERVIEWアーティストたち
学生時代、弟子時代に下積み時代…縁が縁を呼んで今がある ― つばめ窯 高橋協子さん
DATE:2019.11.30
NAME:オリベル
笠間市岩間地区、十三天狗の伝説が残る愛宕山のふもとに、高橋協子さんの工房「つばめ窯」はある。高橋さんが現在取り組む作品は、民話から飛び出した狐や天狗…どれも柔らかいまなざしで、優しく迎えてくれているようだった。
高橋さんの出身は神奈川県。ものづくりが好きで小学生の頃から何かの職人になるのが夢だった。あまり学校に馴染めなかった中学時代、先生のすすめもあって、美術コースのある神奈川県立弥栄東高校(現:弥栄高校)に進む。美大の工芸科をめざすべく、美術コースではデザイン専攻を選ぶが、立体が好きで放課後や夏休みには工芸室を借りて自主的に彫塑(粘土で作る立体デッサン)をしたりしていた。歴史研究部に所属し、高校2年生のときに縄文土器作りを学び、土で形を作る喜び、野焼きを通じて土が焼けていく不思議さと面白さに惹かれていった。武蔵野美術大学短期大学部工芸デザイン科に進学し、短い学校生活の中でもできるだけ沢山の素材にふれたいと専攻は木工を選び、陶芸サークルで土をいじっていた。高校時代から惹かれていた土器作りも続け、OBの指導を受けながら先輩と共に穴窯も作った。そんな頃、偶然見つけた陶芸の雑誌で堤綾子先生を知った。
笠間初の女性陶芸家で、まさに縄文土器のような迫力のある作品。すぐに見学をさせてほしいと電話をかけた。それが笠間に来るきっかけとなった。
見学の直前、先生の家が火事で燃えてしまうという災難があったが、工房は焼け残っているから遠慮なくおいでなさい、という先生の一言で工房を訪ね、夜に一緒にお酒を飲みながら、縄文土器の話で盛り上がった。その後、先生から毛筆の手紙が届く。「火事でたくさんのものを失ったけれど、62歳の新しいスタートを貴女と一緒に歩みたい」
堤先生の元で、住み込みの内弟子生活が始まった。
初日の朝、言われたことは、「私は40歳から焼物を始めた。だからまだまだ素人です。あなたの仕事はそんな私の足りないところをみつけ、助けることなんです。」
手探りの弟子生活。仕事日誌をつけ、過去の仕事ノートを見比べながら仕事を覚えた。主な仕事は土づくりや作品づくりの下準備、窯たき準備、食事の支度、雑用。食器はほぼ作ることはなく、制作補助も花器やオブジェだった。
春風万里荘のある芸術村に、笠間初の女流陶芸作家 堤綾子の窯はあった。豪快にお酒を飲む人で、よく他の陶芸家たちも一緒に酒盛りをしていた。若い頃から自分のやりたいことを何としてもやり通す人だった。
堤先生が17歳の頃に戦争が終わり、一家で朝鮮から日本へ引き揚げる際、ひどい嵐にあった。引揚船2隻のうち親友の乗った1隻は海に沈み、全員亡くなってしまった。堤先生は一人甲板に出て、荒れ狂う空を睨みつけ、「今生かしてくれるのならば、私はこうなってやります、ああなってやります…」と神様に誓った。
「あの時誓ったことがまだ半分もできていないから、私まだ死ねないのよ」と語ったのは、堤先生が86歳くらいの頃だったという。
結婚して子どもをもうけながらも、芸術への熱い想いが抑えられず単身東京へ。内職をしながら武蔵野美術学校へ通った。専攻は油絵だったが、偶然通りかかった骨董屋で、店主が七輪で焼き物を焼いているのを見て興味を持ち、週末は笠間のふくだ製陶所に通い、焼き物を勉強した。
堤先生から一番学んだこと、それは、「お金がなくても環境がなくても、焼き物をやりたいという熱意があったら、どんな手段でも焼き物をやっている」ということだった。
高橋さんと堤先生の交流は今でも続いている。2019年現在、堤先生は91歳。12月には、笠間きらら館のギャラリーで個展を開く。
高橋さんは、弟子が終わる直前、無理をして働きすぎ、焼き物から逃げ出したくなったことがあったそうだ。このまま逃げたら、二度と笠間に来ることはないだろうと思った。でも、20歳からの3年間、笠間で過ごした自分の時代に、蓋をしてしまいたくなかった。そこで原点に帰り、千葉の加曽利貝塚博物館の縄文土器作り同好会で、土器を一から勉強した。これでつまらないと思ってしまったら、さっぱり辞めようという覚悟があった。しかし、楽しいと思えた。まだ可能性があると思えたことで、陶芸の世界に戻った。
年季明けとなって弟子生活が終わり、何度も挫折しそうになりながらも、笠間の陶芸家の外山亜基雄、矢崎春美、黒田隆、各氏のお手伝いをさせてもらっていた。先生の元で花器などの大物作品は作ってきたが、器づくりはほとんど素人同然だった。「最初からできないのは当たり前」と出来るところから育ててくれた3人の皆さんの優しさに報いたくて必死に働いた。温かく見守られ、育ててもらったから、今があると高橋さんは話す。
アルバイト時代、外山さんにグループ展に誘われた際、一度は断るも、「焼き物は売らないと成長しない。今のレベルでできることをやってみろ。」と言われ参加することになった。自分で初めて窯を炊いた。下絵で付けた暖色の色が全て飛んでしまい、呆然としていると、外山さんに「上絵をやってみたら?」とアドバイスをされる。上絵の赤や金は鮮やかなので、下絵でやるより結果的に良かった。高橋さんが今の作品にも使う下絵と上絵の両方をやる技法は、その時の失敗から教わったものだった。
少しずつお店に下ろして、ダメ出しやアドバイスを受けてまた出して…繰り返しやっていくうちに焼き物で生活を支えられるようになった。東京の持つ強いパワーに踊らされなくなったのは、その頃だった。
食器やカラフルな器作りが高橋さんの作品のメインだった。しかし今では、狐や天狗、民話や伝説の世界の作品で個展を開いている。
高橋さんの作品は縄文土器と同じく粘土の輪積みで作る。下から作るのはバランスのとり方が難しいが、柔らかい粘土の特性を生かし、上へ上へと積んでいくのだ。0から足していくプラスの印象と、輪積みで作ることで失われない作りたての柔らかさ。この技法が自分には合っていると、高橋さんは言う。
民話の作品を作るきっかけは10年ほど前、友達の陶芸家の山口由美さんからだった。"十芸家"と言われるほど多才で、唄や司会に、笠間のイベントには欠かせない存在の山口由美さん。高橋さんは、「民話の一人語りをやりたい」という山口さんの演出を手伝うことになった。そんな時、山口さんが茨城の面白い伝説を見つけてきた。それが那珂市に伝わる「四匹の狐」だった。
笠間稲荷神社の別称は、胡桃下稲荷(くるみがしたいなり)と、紋三郎稲荷(もんざぶろういなり)。この紋三郎稲荷、紋三郎という偉い武士がいてお稲荷さんを信仰していたから、その人にちなんでつけたと言われているが、もう一つの説がある。それは、紋三郎狐がいるからという説だ。狐は神さまの言葉を伝えるお遣い。紋三郎狐にまつわる伝説は笠間にいくつも伝わっている。
『四匹の狐』
― 瓜連町(現那珂市)に静神社があり、その裏の青木山に狐の4兄弟が住んでいた。長男の源太郎、次男の甚二郎、三男の紋三郎、四男の四郎介。4匹は悪い狐が人間を騙すのを見て、同じ狐として恥ずかしく、嘆かわしく思っていた。せめて自分たちは人間を守ろうと、長男の源太郎は静に留まって川を、次男の甚二郎は那珂町に上り野を、三男の紋三郎は笠間に向かい山を、四男の四郎介は那珂湊へ行き海を守った。川では漁を、野では開墾や稲作を、山では採石を、海では漁や製塩を人間に伝え、茨城の資源は栄えたのだ。 ―
「私はよそ者だから面白く感じるのかな?と思いましたが、発表すると地元の人たちがとても喜んでくれるんです。」
民話はその土地の文化であり、宗教であり、生きていく価値観に繋がっているものである。狐や天狗は信仰の対象となることもある。形象化するからには、ちゃんと調べないと失礼にあたる。そこで、東京の日本民話の会や、岩間歴史懇話会、考古学や民俗学、歴史に詳しい人の所へ出向き話を聞いた。
同じ伝説や民話でも、歴史的立場から捉える人、ファンタジックな世界として捉える人、一つの民話を元に展開して新しい物語を作ってしまう人、様々な価値観の見方があった。高橋さんはそれを全て自分の中で噛み砕いて、自分の残せるやり方で残していきたいという。自分の解釈だけではなく、狐や天狗が昔の人々にとってどういう存在だったのかを理解しなければいけない。今ではずいぶん詳しくなり、気がついたら岩間歴史懇話会のメンバーになっていた。
岩間の十三天狗にまつわる伝え話に、こんなものがある。
― 江戸時代、上野に住んでいた寅吉という少年が岩間の天狗にさらわれた。天狗にさらわれた子どもは戻ってこないのが常であったが、寅吉は天狗修行を受け上野に戻ってきて、人々に体験談を話して聞かせたのだ。当時の国学者であり神主でもあった平田篤胤が寅吉に興味を持ち、一緒に住まわせて天狗たちのくらしや神仙界について、医術や武術、祈祷法などをきき「仙境異聞」という本にまとめた。 ―
この「仙境異聞」、昨年2018年に「天狗にさらわれた少年」というタイトルで、角川文庫より今井秀和著の抄訳が出版され、話題となっている。全国には数多くの天狗伝説が残されているが、「仙境異聞」ほど詳細に書かれたものは他にない。しかも、裏山の愛宕山と縁がある!高橋さんは調べずにはいられなかった。
高橋さんが気になっていたのは寅吉の"その後"だ。岩間の伝え話では、寅吉は愛宕山の立派な天狗となり、村を守ったと言われていた。それがこの半年、新たな事実が分かってきたという。きっかけは茨城の歴史や郷土に詳しい歴史ブロガーの木村進さんからの情報だった。寅吉は千葉の銚子で風呂屋になったらしいという
― 寅吉は、平田篤胤の弟子が神主の千葉県東庄町にある諏訪神社に逗留し、神事や医術を施していた。ある日、銚子に住む大富豪が娘の眼病を治してほしいと相談に来るが、寅吉はその娘の目を治す。大富豪は銚子の土地と屋敷を与え、寅吉はそこで家庭をを持つ。男児が生まれ、わが子が2歳になる頃、寅吉は「自分はもうすぐあの世へ行く。天狗が教える薬湯の製法を以てここに風呂屋を建てるから、これで家族は生きていきなさい。何か困ったことがあれば、裏山に登り日光に向かって祈れば必ず助けてやるから、安心して暮らしなさい。」といって目を閉じる。 ―
銚子にはその風呂屋の跡地があるという。何カ所か候補地があったが、銚子にゆかりのある木村さんが度々銚子を訪れるなかで突き止めてくれた。高橋さんも木村さんと一緒にその地を訪ねた。跡地の前の坂は天狗坂というそうだ。70代女性の話では昔ここに立派な屋敷があり、その廃墟でよく遊んでいたと言う。
色々な出会いがあり、色々なことを知り、ついには「天狗にさらわれた少年」の著者の今井さんとも会った。不思議な縁はまだまだ続きそうだ。
縁が縁を呼び、出会いの度に使命を帯びる。「自分だけの意志じゃないのかもしれない」と高橋さんは語る。だからこそこれからも、作品に表すなり、直接言葉で伝えるなり、現地に案内するなどを通して、継承していくのだ。